ハワセ幅について色んな考え方があるんですね。
ハワセ幅が長いとアタリが出ないからダメとか。
アタリがないまま釣ったら「釣った」ではなく、「釣れた」とか。
は?って感じ。
ハワセの半分しか理解してないんじゃない?
ウキのアタリありきの狭い考え方を捨てれば、その先の釣果が待ってます。
— アールグレイ@子育て真っ最中の紀州釣り師 (@earl_grey_y) October 22, 2019
「釣った」と「釣れた」の違いって何を基準に判断していますか?
私は、「釣った」とは、自分の思い通りの釣りをして魚を掛けたこと、
「釣れた」とは、自分の思い通りではない釣りで魚を掛けたことだと考えています。
ここで、「思い通りの釣り」をどのように定義しているかで、
「釣った」と「釣れた」の考え方の違いが出てきます。
では、紀州釣りで「思い通りの釣り」とはどんな釣りでしょう?
ウキにアタリが出て、合わせて釣るのが一般的ですね。
でも、ウキにアタリが出て、合わせて釣るだけが「思い通りの釣り」でしょうか?
私はそうは思いません。
ウキにアタリを出して釣るだけが、「思い通りの釣り」ではないと考えています。
すなわち、ウキにアタリがないまま釣っても、「釣れた」ではなく、「釣った」と言える釣り方はもちろんあります。
ウキでアタリを拾って釣らないとい「釣れた」とは言えないと考えている人は、ウキの動きだけで釣っているだけの想像力が低い釣り人になります。
たとえ、ウキにアタリが出ないままチヌを釣っても、イメージ通りにチヌを掛けることができていれば、それは「釣った」ことになるんじゃないでしょうか?
たとえば、大きくハワセたとき、ウキにアタリは出ず、ウキが沈み始めた時はすでにチヌが掛かっています。
これも「釣った」か、「釣れた」か、の判断の違いは、その釣りをイメージして釣ったかです。
潮が速い場合、エサ取りが湧いている場合、大きくハワセて、団子アタリ、エサ取りのアタリ、前アタリを出さずに、刺し餌を浮かせないことを優先しますよね。
大きくハワセるとウキが沈み始めた時はチヌが掛かっています。
この時も、イメージ通りに釣れたのなら、「釣った」ことになります。
また、チヌではよく居食いしていることがありますよね。
居食いとは、針にかかったチヌが、その場から動かず、ウキに反応がなく、
仕掛けの回収時にかかっていることがわかることです。
釣り方の過程をイメージしているのであれば、たとえ居食いでも掛かっていたら、「釣った」ことになります。
なので、居食いも「釣れた」ではなく、「釣った」だと思っています。
ウキだけのアタリを見分けて「釣った」という狭い範囲の釣り方では、ウキでアタリを出せる状況の釣りでしか、「釣れない」ということになります。
ちなみに、ウキに反応が出なくても、その他の仕掛けの動きの変化でチヌやエサ取りがエサを触る様子はわかります。
たとえば、道糸の動き、ウキ止めの動きなどですね。
ウキの反応に頼りすぎていると、釣りの可能性を狭い範囲で考えていることになりますよ。
海の中は見えないので、いかに自分でイメージを膨らませるかが釣果に結びつきます。
こんな釣りじゃないと、釣ったことに入らないという考え方は、
釣りのイメージを膨らませる邪魔になるだけです。
あらゆる可能性をイメージして、釣り方を試行錯誤する。
これが釣りの楽しみのはずです。
イメージを膨らませて、釣りを楽しみたいものです。
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